リシケシの小学校に訪問してみると…。子供達がマントラを唱え、ナディーショーダナ(呼吸法)を行なっています。給食からはアーユルヴェーダの思想を感じたりと、リシケシの子供達は教育の中でヨガの哲学を学んでいるのです。ヨガが生活の基本というよりも、生活がヨガそのものなのです。
ただヨガをしにインドに行くだけではなかなか体験できない、インドの小学校を訪問させてもらえる機会をいただきました。
その小学校は、師が幼い頃に通っていた小学校。給食室まで見せていただくことができました。インドの子どもたちは学校でどのように過ごし、何を食べて生活をしているのでしょうか?
ほんの一部ですが、ご紹介します。
夕暮れ時、17:00頃の訪問。
太陽が夕陽に変わり、オレンジからパープルへのグラデーションに空を染めはじめました。この時間からの訪問は、学校での学びも終盤の頃の訪問でしたが、小学校での授業でも、たっぷりとヨガの学びを感じられる内容でした。
階段を登り始めたあたりから、かすかに聞こえてくる、子どもたちの声。その声は、ただ子どもたちが戯れているはしゃぎ声などではなく、、、
なんと、子どもたちがお行儀よく並んで座を組み、大きな声でマントラを唱えている声だったのです!
神様に届くように、と、一人一人が、決しておさぼりすることもなく、ただただ熱心に精一杯の声を出して、マントラを唱えています。
子供達はマントラを唱えながら、目の前にあるカップに注がれた水を、小さな小さなスプーンを使って、カップからカップへと移しながら、ナディーショーダナと呼ばれる呼吸法を行なっています。
ナディーショーダナとは、別名「片鼻呼吸」とも呼ばれる、ヨガの呼吸法のひとつで、精神を落ち着かせて神経系を整える浄化呼吸法です。体の左右のバランスを整え、体内の陰と陽のエネルギーバランスを整えてくれます。
外には1人で黙々とマントラを唱え、お祈りをしながらナディーショーダナを行なっている生徒もいました。
師、曰く、彼は決められた時間に遅れてきたからだ、とのことで、まるで日本の学校で廊下に立たされている生徒のようだなぁなんて話していましたが、サボることもなく、真面目に1人で黙々とお祈りをする姿。とても美しいと感じました。
精神修養するなら食事も自分でつくる
次のアラティの時間まで、めったに入ることができない給食室も覗かせていただきました。この日、作られていた小学校の給食の献立は、愛情がたっぷり入ったカレーと、焼きたての窯焼きナンでした。
インドでは、昔からアーユルヴェーダが深く根付いており、料理には作る人のエネルギーが込められる、という教えをすごく大事にされています。
そのため、私の師は普段は必ず自分で料理をするようで、チャイやカレーやスープ、サラダなどをいただくようです。あちらこちらでご飯を食べると、いろいろな人のエネルギーをもらってしまうからと。
また、師から学ぶ哲学の話には、サットヴァ・ラジャス・タマスをつくる食べ物のこともよく出てきます。
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ヨガでは、料理をすることもスピリチュアルワーク(精神修養)。つまり、瞑想も、アーサナの練習も、精神的な日々の勉強も、全ては体が資本なので、いい食べ物を食べなくてはいけない。だから精神修養をしている人は、料理もするのだという教えです。
今に集中する本当の意味
そういえば、見ていてわかるのが、師は無駄なことを一切されていません。
料理、食事、身の周りの掃除やシャワーを浴びて自分自身を清めること、練習、勉強、そしてコミュニケーションなどに時間をかけられています。
昔のことを考えると涙が出るし、先のことを考えると恐怖になる、と哲学で教えてくださいます。今のこの時間、今の生活に集中されているため、周りの人の様子をすぐに察知でき、元気がない人がいるとすぐに気付いてくださいます。
私がいつもスタジオに行くと、手を合わせて、
「Rie先生、こんにちは。元気ですか?」
と必ず声をかけてくださり、そして他の生徒さんへも、目を見て、お一人お一人に丁寧に挨拶をされています。
今ここにいること、ここにいる一人一人を大切に想うこと。その姿勢は、私たちがさまざまなヨガスタジオに行き、ただアーサナの練習をして帰るだけで「ヨガをしている」と言っているような生活からは決してできないことだと思います。
日々の生活全てが精神修養であり、そう行動している、その全ての行いからなる、心の表れでなのでしょう。
ヨガは、外形的にはポーズをとることですが、このように日常で今に集中することこそ、ヨガなのだと気付かされます。
アラティの不思議な力
空はすっかり暗くなり、いよいよ最後のアラティの時間です。プージャの記事で説明していますが、アラティは、マントラをチャンティングしながら揺り動かされる光、神様に捧げる灯り、炎なのですが、”精神の光” というような意味を持ち、浄化の光を意味します。
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子どもたちがきちんと整列し、胸の前で手を合わせてマントラを唱え始めました。
1つの器に入ったロウソクの灯りを、一人一人が心を込めてアラティをして、次の人へ、次の人へと手渡されます。
神様への感謝と、神様からの愛を受け取ったら、次は生徒1人が持つロウソクの灯りの元へ向かい、胸の前で手を合わせて感謝を込めます。
ここで涙が勝手に流れ出ました。私だけではなく、他の生徒さんも。
子どもたちの純粋なマントラが響く中でたくさんの愛を感じられたことによる涙と、心の闇を浄化できたのだというアラティのお印の涙のように感じられました。
この場を去るとき、整列している子どもたちの前を通る際に、お辞儀をしたのですが、一人一人が、本当に丁寧に、手を合わせてお辞儀を返してくれたことに感動しました。
アラティのあと、より一層空が美しく、ガンジス川と、川をまたぐ橋が輝いて見えたのは、私だけではないと思います。
次回はいよいよインドのアシュラムへ訪れた、その様子をお伝えします。